潜水艦の艦長を捕虜のした話 ②

4 実戦へ 

潜水艦『タング』 Wikipediaより


 伊万里を10月18日、日没出港、済州島の南を通り揚子江河口に向かうコースをとる。済州島の手前で、他の護衛艦より敵潜水艦探知の報せがあり、急ぎ方向を変えて朝鮮の麗水湾に入り翌朝済州島の北を通った。済州島を左に見て東シナ海に入ったところで夜になる。日没と同時に再び潜水艦を探知し厳戒態勢をしく。本艦も探信儀により探知する。護衛司令官より34号は潜水艦を掃蕩せよと指令あり、追跡する。潜水艦と出会った最初のチャンスである。

 明らかに探信儀は敵を探知し、その動きも良く判り艦長は第1投射法用意を号令、機関部にも第1戦速急げ1/2を連絡、対潜攻撃に入った。ところが訓練は充分行届くほど、したつもりでも大きなミスがあった。第1回投射をはじめると共に、艦は魚雷攻撃でも受けたような大きな震動があり、艦内電気は全部止まった。艦速を第1戦速16節に上げるとき、爆雷投射にかかる迄の時間が短すぎて、依然13節のままであり、また爆雷の深度調整も最初は60mにすれば良かったが30mでやったため、あまり艦と遠くない位置で爆雷が爆発し本艦自体が大きな衝撃をうけ、私も艦橋で突き上げられる様なショックを受けた。真暗な中で一応の爆雷攻撃をして、戦果確認は出来ず、暗夜、船団を追って合流した。それから無事舟山列島の入りひとやすみ、一路大陸沿岸沿いに南下する。このコースは海南島、仏印、シンガポール、ボルネオへの航路である。

 舟山列島を出港したその夜、敵潜がレーダーで索敵中なのを逆探でキャッチする。なるべく陸地沿いに進む。昼は異常なく夜になると敵のレーダー索敵が判り、尾けられていることがはっきりして来た。二直交代で警戒配備をして進み愈々魔の台湾海峡にかかる。丁度基隆の西側、金門島より一寸北のところ海岸より5~6kmを航行中、夜中の一時頃、私は当直より下りて、へやで眠っていた。かすかな爆発音を聞く。全員配置につけのブザーが鳴る。艦橋に上がるとどうも2隻やられたらしく、1隻は鋭角に船首を中天に向けて船尾から沈んでいった。航海長の話だと護衛隊の旗艦より、対空戦闘の命令が下った由。どの護衛艦も潜水艦を探知していなかったので空襲だと誤認したらしい。しかし爆音も聞こえぬので艦橋で皆不思議に思っていた。再び命令がきて、船団は直ちに金門島に避難。34号海防艦は単艦残り潜水艦を攻撃せよとのことだ。

 丁度輸送船がやられた地点から2~3000mの周辺を探ると、優秀な探信儀の下士官が沈船があるという。潜水艦かどうか判らぬが、海底に動かぬ目標があり水深30mに沈座して動かず。スクリュウ音は聞こえず。潜水艦か沈船か判らぬが、まず攻撃すべきということで、その上を往ったり来たりする。このあたり2節の潮の流れがあり、遭難乗組員たちがこの潮で流されている。この人達に爆雷攻撃の危害が及ばぬ距離をとるため時間をかけようとして、約1時間半経過してから、この動かぬ目標に対して1発だけ、真上から爆雷を落とした。


5 捕虜のはなし

 其の後遭難船員の救助に当る。先に記した様に潮の流れと共に重油が流れているので、油の流れを追ってゆくと夜が白々と明けて来た。黒い油の中に点々と人の頭が浮いている。悪い例えで申し訳ないが沢山の西瓜が浮いている様である。そして重油をかぶって真黒である。カッター、汽艇全部卸して救助活動を行う。そのうち艦橋の上の見張員から、カッターが近づくと遠方に泳いで逃げるのがいるという報告が入る。これはおかしいと早速汽艇に追わせた。

 驚いたことにアメリカ人である。白人だからすぐ判った。2人を難なく捕らえ本艦に運んだ。訊問してみると、アメリカの潜水艦タング(魚の名前の由)の艦長と先任衛兵伍長である。してみると、昨夜爆雷攻撃した目標は、沈船ではなくやはり潜水艦であった。遭難船員の救助終了後、直ちに昨夜の攻撃位置に戻ると浮輪が浮いている。その浮輪に5~6人つかまっており、見ているうちに数がふえてくる。ボートを下ろしてこれを助ける。正確な数は忘れたが10人位のアメリカ人を捕まえた。まだ待っていれば浮いてきそうだったが、2隻以上集団で潜水艦が行動していることは明白であり、マゴマゴしていると、こちらがやられる惧れが十分あるので背に腹はかえられずアメリカ人の救助は打切り金門島に帰還した。先に退避した船団は既に入港していた。

 同期の友人が102哨戒艇にいて早速カッターでやって来て捕虜を見せてくれという。商大で一緒だった彼に久し振りで逢うことが出来、思い出話にふけったものである。捕虜の始末だが色々困ったが結局高雄の海上護衛司令部から高雄に陸上げせよとの命を受け、直行、無事捕虜の引渡しを終わる。

捕虜を捕まえた時、商大卒なら英語は達者であろうからとの理由で先任将校に捕虜取調べを命ぜられ、たどたどしい英語で始める。艦長はアナポリス兵学校出身で実にしっかりした男だ。艦上に上がって来てからも悪びれず、デッキで尋問ということになっても、答えず、逆に我々は国際法上捕虜として権利があり、審問を強要されるものではなく、国際法上定めた待遇をせよ、と食ってかかる有様であった。そこで艦長の尋問はやめにして、他の捕虜の中から調べる者を見付けだそうと10人ばかりを整列させると震えているのがいる。若い22~3才の水兵である。早速これを連れて来て尋問開始。この水兵の話を総合すると、潜水艦は複数で出てくる。「タング」はアリョウシャンの基地からというが真偽ははっきりしない。ただ潜水艦に逢うたびにモールス符号で連絡し合うのを聴音機でキャッチしていたから複数行動説は確かである。若い水兵はいろんな訊問に対してあまり素直に返事するので本当かどうかかえって迷った次第だった。

 先にも述べた様に艦長はスポーツがりの頭をした実にしっかりした者で、丁度大本営発表で台湾沖海戦の戦果を聞いていたので、それを話すと、彼曰く、そういうことは無い。自分も海戦の模様は聞いた。日本の発表は出鱈目もいいところだ。この海戦で日本の台湾、比島の対空戦力は壊滅したではないか。貴方の国こそ危機に瀕しているではないか。実にシャアシャアしていて曳かれ者の小唄とも思えなかった。

 艦内で捕虜収容室に困り兵員浴場に入れ密閉していたから、室内は猛烈な暑さになったらしい。兵に言われて見に行ったら捕虜が手を合わせておがんでいる。早速扉を開け放してやった。高雄に入港後、早速、艦橋の両側にマークを白く書き其の下に英語でタングと記入した。



6 高雄、砂糖の話

 高雄に入港したのは19年10月、末も近いところで、高雄の岸壁に並んでいた倉庫は爆撃で焼け崩れ、陸軍の衛兵が見張りに立っている。

 捕虜の陸上げは終わったし、陸軍大臣の感状は届くしで、気を良くして士官一同で祝杯を挙げたりした。高雄には4~5日いたが2日目、下士官が真黒に焼けた倉庫をいじっていると下の方に全く無傷の真白な砂糖がつまっているドンゴロスの袋がいっぱいあるのを見付けた。それでこれを頂戴して、内地に帰るチャンスがあれば土産にしようということになった。しかし、陸軍の歩哨が邪魔である。警備に立っているこの歩哨を追い払わねばならない。艦が倉庫前の岸壁に横付けされているから、此処は当分、こちらから衛兵を出して警備するからという口実で、陸軍さんに遠慮して貰うこととし歩哨に立ち去ってもらった。日暮れを待って総員作業にかかり艦内が砂糖のドンゴロスで埋まる程積み込んだ。喫水が深くなって魚雷が当るぞと冗談を言いながらせっせと積み込んだ。いつ沈むか判らぬと思い乍らも、またこれを故国に持ち帰りたい望みもあった。

 後に年明けてから門司に帰ったとき、乗組員全員がこのドンゴロスの袋半分位ずつ砂糖の分け前に預かりそれぞれの家へ送ったりした。私も国へ送ったが、家ではこれでぜんざいをいっぱい作って村の人々に振舞ったという。『南に行くならお砂糖をたのむ...』歌の文句を地で行った訳だ。


7 楡林そしてまた高雄へ

 内地から南下してくる船団の護衛にあたるため再び台湾海峡をわたり大陸沿岸で合流。ところがその中の1隻勇山丸が機関故障を起こしたため、これを護衛して楡林に入れとの命令が出る。どうもこういう仕事になると34号海防艦ばかり御指名がある。海南島の南から楡林入港したのが11月3日明治節の日であった。ここに1週間ばかり碇泊して商船は故障したエンジンの修理。そして我々は、カッター競技、椰子の実とり、鱶釣り、等々。

 この鱶は、長さ3~4mはあろうかという大きなもので、釣針は丸鉄を曲げ牛肉を針金でまきつけ10人位で吊上げるのだが、鱶と引合っているうちに、釣針に使った丸鉄が焼が入れてないから伸びてしまい逃げられるということを繰返した。

 入港したのが明治節だったので港軍需部は鯛を沢山用意していた。最初の内は御馳走に大喜びしたものだった。ところが入港船が少なかったから毎日毎日鯛の料理で、しかも鯛の鮮度が日に日に落ちる。3日目頃からはうんざりした。陸上では処分に困って大量に押し付けて来たものである。

 ここにいると夜中、12時~1時というとロッキードP38双胴の米機が空襲に来る。遥か高いところから爆弾を落とす。一種の神経戦である。はじめは対空戦闘で配置につくが、高角砲の玉は届かず、向こう様は盲爆。それで配置につくのを止めてゆっくり兵を休ませようと艦長に進言したが、責任者となれば、そうも行かず、毎夜毎夜ロッキードの姿を拝まされた。真夜中だし爆弾は海に落ちたり、山中に落ちたり、陸上の砲台は盛んに射ったが我々は射たず眺めていた。

 椰子の実もこれ以後食べたことはない。1週間位の間毎日椰子の実の水を飲んだのも懐かしい思い出である。支那人まちは豚小屋の家並みであったが海軍司令部は立派な建物であった。

 機関故障の勇山丸も修理がすんで此れを護衛して、シンガポールへと出航、ところがまたまた34号は高雄へ帰れというので、引継ぎして一路高雄に向かった。単艦航海というのは今までもほとんどないし、護衛せずに航海することは申し訳ない気もしたが一方気楽な面白い航海であった。途中浅瀬がつづいて潜水艦の行動しにくい海面がある。フオモサバンクだ。船は良くここを通るが、ここで探信儀に明瞭に潜水艦をキャッチした。総員配置につけ爆雷戦第1投射法で15ヶ位爆雷を投下した。結果如何と振返ってみると、明らかに油が一面に浮いてキラキラと光っていた。撃沈だ。戦果確認に戻ると、白く光っているのは、油にあらずして、魚が浮いて腹を上にして沢山漂っているのであった。潜水艦と思って探知したのは実は魚群だった。そこで速度を落として総員魚とり方。

 台湾海峡は季節風のシーズンで荒れている。之字運動中、横波をうけようものなら、立っているのが精一杯のところである。夜、私の当直中、大きな波でグラッと大きく艦が傾いた時があった。

 私は艦橋の羅針儀のビスにしがみついて辛うじて立ち、傾斜計をみると針が極限の45度のところでピタリと止まっていた。50度か55度位傾いた様な気がした。艦の傾きは戻るが指針はもとへ戻らず漸く指針が動いた。すぐ航海長がとんで来てどうしたと言う。寝台で寝ていたら下へ転げ落ちた由。下のデッキで寝ていた者は全部片舷にたたきつけられたり、机の引出しは全部抜け落ちたり、ほうすい所の兵は打撲で眉間を傷つけたりで、当直将校は誰だという騒ぎだった。とやかくして11月25日高雄に着。