潜水艦の艦長を捕虜にした話 ①

まえがき 

丁型海防艦  Wikipediaより

 先日、海軍時代、対潜学校の術科訓練中同班でありかつ5期予備学生の教官として赴任したときも一緒であった友人が会社に訪ねてきた。四方山話の際、彼曰く、「潜水艦を沈め、その乗組員を捕虜としたことは、今度の戦争の中でも珍しいことであり、我々対潜学校艦艇班の仲間ではたった一人の体験である。また戦地から教官として内地に帰った時、4期5期の予備学生を集めて実戦談をやったが、君の話は漫談を聞く様に面白かった。これは是非とも戦記として残し、三期会の会報に載せるべきだ」と。

 海防艦34号(私の乗艦)の記録、戦闘詳報を後輩に依頼し防衛庁の戦史研究室で調べて貰ったが、概略のみしか判らず詳しい記録は残っていなかった。そこで私の記憶をもとにして34号海防艦の奮戦ぶりを書くことも意義のあることと思い拙いながら筆を執った次第である。


1 海防艦34号艤装員

 対潜学校を卒業したのは昭和19年7月上旬。私は今の晴海の石川島造船所に海防艦34号の艤装員として着任した。造船所には艤装員宿舎があり、既に着任されていた艦長、先任将校(航海長)に挨拶してから、40日間の艤装員生活に入った。

 40日間の艤装中、やったことはこの期間中、当直将校をやり通したことである。日中は兎も角、夜は40日一切外出せず当直将校を続け、先任将校をはじめ士官、特務士官の方々に上陸、帰宅して貰った。私の学校は神戸だし、家は九州だし、東京には親類も知った処もなく、純真無垢で、街に出て酒を飲むこともなく完全に当直将校を務めた。その所為か、その後戦地に出てからは、艦長は別として先任将校はじめ各士官が非常によく私を援けてくれ、まだ海軍の諸事に暗い予備学生士官の私が大過なくすごすことが出来た。


2 初航海と佐伯での訓練

 艤装終了、爆雷、弾薬、其の他を搭載し、佐伯防備隊で対潜訓練をすべく横須賀を出港する。昭和19年8月25日だったと思う。途中尾鷲で仮泊し翌朝早く出港し、右手の那智の滝を目標に方位を出しながら紺碧の海を航海した。潮岬を廻ったところで、敵の潜水艦を探知し、また敵のモールス符合を聞いたので、特に見張りを厳にし雷跡、潜望鏡の発見につとめた。しかし、兵員は横須賀出港の時充足して、まだ対潜訓練もしていないし、また、爆雷投下しては近くに群がっている漁船に被害を出ることも考え、近くに商船もいないし、此処は見逃して早く佐伯に行くべきだというので、戦闘態勢をとったままで進んだ。

 丁度田辺の沖合で、ほうすい所上の見張下士官が警笛を鳴らし海面を指さした。左舷90度、300mぐらいのところに大きな水の盛り上がりがあった。スクリュウか何かでぐっと押上げられた海面の盛り上がりである。そこに潜水艦がいる事ははっきりしたが、艦長は飽くまで、対潜訓練を佐伯ですます迄無理はしたくない、モールス符号聴音で2隻以上いることははっきりしているので爆雷投射のため直進中に雷撃されることを心配し、対潜攻撃を回避しようとした。其の時特設砲艦なち丸が現場にさしかかって来たのでQ旗を上げて状況を知らせ、その場を立ち去ったのである。私も若かったので艦長の処置に対して不満があった。潜水艦を攻撃すべきだと思ったのである。しかしどちらの処置が良かったのかは今でも疑問である。瀬戸内海を通り佐伯に入る。1ヶ月間、対潜、対空訓練を積んだ。対潜訓練は日本の小さな潜水艦を目標とし、探信儀で探知、または聴音機で索敵し、それを爆雷攻撃する訓練であった。

 傑作だったのは潜水艦の潜望鏡を曲げたことである。爆雷は投下されて沈んで行き、そこへ潜水艦が進んで来て交叉するのが理想であるが、その日は潜水艦進路に対して60度位の角度で突込み、丁度潜水艦の真上ぐらいに来たとき何か艦艇に当ったものがあり、不思議に思った。其の後防備隊に帰港したら、潜水艦が潜望鏡を上げたままで入って来た。我々の艦が真上を突っ切ったとき探信儀で潜望鏡を曲げてしまい、潜望鏡が下らなくなったのである。まあ立派な攻撃法ではなっかたのだが、このため潜水艦は呉のドック入り。その間対潜訓練はおやすみで、砲撃訓練、対空射撃訓練に終始した。艤装員で派遣された人はみな経験されたことである。訓練も終了し10月4日第一海上護衛隊に編入される。そして呉に回航、探信儀を修理し軍需品の搭載をしてモス船団(門司~汕頭)護衛のため、10月9日呉を発ち、門司へ。


3 門司から佐世保

 門司でミ25船団を待ち4日間を過す。私は元来、魚が好きなので旨いという河豚を食べてみたいと思ったが、毒に当るのが怖くて今まで控えて来た。しかしどうせ生きては帰れぬ戦地に行くので河豚を食べてみた。それから食った食った4日間、河豚ばかり食った。

 命令変更でミ23船団を護衛することになり10月15日門司を発ち佐世保に向かう。玄海灘にさしかかると漁火がきれいであった。遠方から見ると、ひとつの光の帯で、その間を通過出来るのかと思った。今でもその美しい光景が眼底に残っている。16日佐世保に着く。伊万里港に集結している伊万里~ボルネオ間船団の護衛である。輸送船12隻護衛艦六隻で、34号も佐世保からこの船団に加わる。