潜水艦の艦長を捕虜にした話 ④
遠縁の方が昭和50年に記された第二次大戦中の戦記を残しておこうと思います。第二次大戦中、台湾海峡で米軍の潜水艦の乗員を捕虜にした話で、ここまで①~③話を投稿しました。
その後、いろいろ調べてみると、潜水艦サイドの記録もあったので、Wikipediaからの当時の資料を引用させていただきました。テレビドラマ化もされており、『世界大戦の潜水艦「タング:最後の魚雷」』という番組にもなっています。
テレビドラマの方は見ていませんが、Wikipediaの『潜水艦タング』の項と、遠縁の戦記、読み比べてみると、興味深いものがあります。
以下、少し長くなりますがWikipediaよりの引用です。
『タングは9月27日にミッドウェー島に寄港して補給を済ませ、台風をやり過ごした後、先島諸島近海の機雷原を抜けて台湾北部の哨戒海域に到着した。これと前後して、タングはシルバーサイズ (USS Silversides, SS-236) 、サーモン (USS Salmon, SS-182) 、トリガー (USS Trigger, SS-237) で構成されたウルフパックに加わるかどうか意向を打診されたが、タングは単独哨戒を選んだ。10月11日未明、タングは台湾北端富貴角近海で14ノットで航行中の大型貨物船と思われる船を発見し、魚雷を3本発射。2本の魚雷が命中し、目標は沈没した。同日の21時ごろには別の目標を発見し、魚雷を1本だけ発射。魚雷は無駄にはならず、目標は沈没した。この日の攻撃で、タングは徐州号(拿捕船、1,658トン)と大分丸(関西汽船、711トン)を撃沈した。10月19日、タングは中国大陸沿岸部に進路を向けた。翌20日4時ごろ、タングはレーダーで敵の集団を探知した。観測を続けると、少なくとも香取型巡洋艦と思われる大型艦と2隻の駆逐艦がおり、19ノットの速度で航行していることがわかった。この艦隊はフィリピンに向かう第五艦隊(志摩清英中将)だった。タングは5度も接近して攻撃しようとしたが、ついに果たせなかった。タングは福州近海の海壇島(ターンアバウト島)に進入して一息ついた。
10月23日未明、タングは(北緯24度49分 東経120度26分 / 北緯24.817度 東経120.433度 / 24.817; 120.433) の澎湖諸島北北西130キロ地点でウ03船団の接近を探知、オカーン艦長は夜間に浮上攻撃を行うことを決定した。タングは船団の中心に浮上し、前後左右に目標を置いた形となった。タングは間髪入れず、近くのタンカーに魚雷を発射した。タングは潜航することもなく取舵を切って別の目標の船尾を巡った後、艦尾発射管から魚雷を4本発射。魚雷は別のタンカーの船尾に命中し、タンカーは沈んでいった。この時、タングに横切られた貨物船が、前を行く別の船に追突した。タングの左舷前方には護衛艦が、左舷艦尾側には駆逐艦が迫っていた。タングは全速力で開けた水域に向かい、ウ03船団から離れた場所に着いたとき、別の爆発と炎上する3隻の船が観測された。この攻撃で、タングは3隻の10,000トン級タンカーを含む5隻を撃沈したと考えた。実際には東運丸(岡田商船、1,915トン)、辰寿丸(辰馬汽船、1,940トン)、若竹丸(日本郵船、1,920トン)の3隻を撃沈。この時に攻撃した「タンカー」は、後に貨物船であったことが確認された。なかでも若竹丸は、タングを発見するやいなや体当たりを試みて突進したものの寸前でかわされ、その直後に撃沈された。タングは再び海壇島に向かい、一息ついて次の攻撃に備えた。すでにレイテ島の戦いが始まっており、更なる後詰の船団が通過する可能性があった。
10月24日夕方、タングは烏キュウ嶼近海で大輸送船団を発見した。これは10月18日に伊万里湾を出航しミリに向かっていたミ23船団で、潜水艦の攻撃を避けるべく大陸沿岸すれすれの浅瀬を航行していた。タングはレーダーで探ったものの、多くの光点を示したためあまり役には立たなかった。タングは12ノット程度で航行していると思われたミ23船団の追跡を開始した。日付が変わって10月25日1時15分、護衛艦の1隻第46号海防艦はタングを探知し、発光信号とサーチライトで船団各船に全速航行するよう下令したが、サーチライトで船団を照射したことは、タングからしてみればあまりにも親切なことであった。照射により、何隻かの輸送船やタンカーの姿をさらけ出したからである。
2時8分、タングは(北緯25度04分 東経119度35分 / 北緯25.067度 東経119.583度 / 25.067; 119.583) の地点で攻撃を開始し、輸送船に向けて魚雷を発射した後、江原丸(日本郵船、6,956トン)に向けて艦尾発射管から魚雷を発射。魚雷は江原丸の船尾と右舷船倉に命中して、江原丸は船首を海上に露出した形で沈没した。江原丸の後方を航行していた応急タンカー松本丸(日本郵船、7,024トン)は、江原丸に向けて発射された魚雷のうちの1本が命中し、航行不能となった。タングは護衛艦や船団各船からの砲火を避けるべく全速力で船団中を走り抜け、一旦船団から9キロ離れた場所に退避し、最後に残った23番目と24番目の魚雷装てんを急いだ。装てん後、タングは再び船団に近寄り、新たな目標に照準を合わせた。
23番目の魚雷は900ヤードの地点から発射され、「熱く」真っ直ぐに進んだことが確認された(hot はエンジンが点火したことを意味した)。24番目、最後の魚雷が発射され、それは舵に異常をきたしており、浮上し左に曲がって旋回し始めた。タングは予備電力を使って艦尾を振り、魚雷の進路から外れようと試みた。しかしながらおよそ20秒後、タングの後部魚雷室に自らが発射した魚雷が命中した。タングは艦尾から沈没し、水深30メートルから40メートルの海底に着底した。爆発のショックで、艦橋にいた見張りの何名かは海上に放り出された。艦内の乗員は艦前部に集まり、脱出が開始された。着底した時点では30名あまりの乗員が生存していたが、半数以上が火災による煙を吸引して窒息死し、艦を脱出できた乗組員は9名だけだった。
第34号海防艦は江原丸と松本丸の船員の何名かを救助した後、ソナーで海中を探索すると海中に動かぬ物体があるのを探知。付近の海上には漂流する船員が多数いたので、爆雷を1発だけ投じた。その後、再び救助活動を続けると、逃げてゆく漂流者がいるのを発見。ただちに確保し、尋問するとオカーン艦長と先任将校であることが分かった。間もなく近くに浮き袋が浮かび上がり、何名かのタングの乗員が浮かび上がってきたので、これらも捕虜とした。一部乗員は、自分が撃沈した、海面に突き出した輸送船の船首部分で翌朝を迎えたと伝えられた。
オカーン艦長に対する尋問が行われ、オカーンは「我々は国際法上の捕虜としての権利があり、審問を強要されるものではなく、国際法上定められた待遇をせよ」とまくし立てたので、オカーン艦長からの尋問を諦め、他の若いタング乗員にも尋問を行った。ともかく、第34号海防艦の乗組員は収容した生存者から自分が撃沈した艦がタングであることを知ると非常に喜び、艦橋両側に潜水艦の絵を白く描き、その下にタングの艦名を英語で書いて記念にした。江原丸と松本丸の船員の中には、乗り合わせたタング乗員にリンチを加えた者がいた。オカーン艦長以下生存の乗員は捕虜収容所に収容され、終戦後解放された。乗員からの情報の一部は、1944年10月に座礁喪失したダーター (USS Darter, SS-227) の日本側調査記録と合わせて、海軍対潜学校において『米国潜水艦関係資料速報』として編集された。
タングの沈没位置が浅海であることから、日本海軍はタングの調査と捕獲を試みた。作業は11月2日に指示され、駆逐艦栗を旗艦とする作業隊が編成された。11月15日、作業隊は(北緯25度02分 東経119度15分 / 北緯25.033度 東経119.250度 / 25.033; 119.250) の位置を中心に作業を行い、11月28日にタングの一部を拘束した。その後も作業は続けられたが、南岸低気圧の影響で作業は次第に困難を極め、また大陸基地からのB-25などの飛来が何度かあったため、12月25日をもって作業は打ち切られた。一連の作業での成果は実質なかった。
タングは1945年2月8日に除籍された。 タングは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章および2個の殊勲部隊章を受章した。オカーン艦長は最後の哨戒の功績で帰還後に名誉勲章を受章した。』
最後にテレビ番組の概要です。
番組名
世界大戦の潜水艦「タング:最後の魚雷」
概要
台湾海峡に送り込まれたアメリカ海軍の潜水艦タング。オカーン艦長の指揮の下、日本軍の貨物船を次々と撃沈するも、最後に残った魚雷に異常が発生し、絶体絶命のピンチに。
番組概要
本シリーズでは、第二次世界大戦中に活躍した各国の潜水艦が、いかにして戦ったかを克明に追う。敵の輸送船団を多数の潜水艦で襲撃するドイツ海軍の「群狼作戦」や、太平洋における日米の水中戦。その陰には戦略立案者たちの存在と、テクノロジーや戦術の飛躍的進化があった。専門家の分析と豊富な資料映像、証言に基づく再現映像を用い、第二次世界大戦期の潜水艦の真実に迫る。
エピソード内容
今回の舞台は台湾海峡。日本軍の補給路を断つべく、リチャード・オカーン艦長率いる潜水艦タングが送り込まれた。タングは、電動式魚雷を搭載したアメリカ海軍の最新鋭潜水艦だ。日本軍の護送船団を発見したオカーン艦長は、巧みな戦術を駆使し、敵の商船を次々と撃沈させる。しかし、最後の1発となった魚雷に異常が発生し、絶体絶命のピンチに見舞われた。潜水艦タングと乗組員の運命やいかに…。