潜水艦の艦長を捕虜にした話 ③
8 マニラにて
アメリカがレイテ作戦を開始した直後、第1回リンガエン湾、第2回マニラまで、船団護衛をした。フィリピン西岸をすれすれに行く。夜は信号弾、照明弾が打上げられ、昼はコンソリデーテッド機がはるか彼方を巡航して、船団を監視している。日没後島陰で仮泊したり、急に沖に方向を変えたり苦心したものだ。だが幸い被害を受けなかった。
マニラ港内は沈船でギッシリ、その沈船の間をぬって進む。那智ではないかと思うが巡洋艦が1隻座礁していた。マニラ着はたしか12月11日。入港と同時に警備府より人が来て艦の周囲に爆薬をしかけられる惧れがあるから、充分監視する様にという。
長らく陸を踏まなかったのでマニラの街に出る。マニラは騒然としていて、陸軍の将校が連絡に動く時でも、トラックの上に機銃をのせて護衛を付けてフルスピードで行く始末。私も防暑服に拳銃をつけ引金を持ち乍ら街の中を歩いた。海岸のプール付の立派な水交社に泊る。
9 苦心の曳航
次の航海は陸軍の飛行兵を載せた船を450屯位の駆潜艇と共に護衛することである。19年12月13日夕刻、まだ日のあるうちにマニラを出港。バターン半島を過ぎるころマニラ地区空襲警報発令。間一髪である。しかもこの陸軍船、石炭船で、もくもくと煙を出している。でも幸い飛行機の襲撃をうけることもなく、やれやれこれでフィリピン海域を離脱出来そうだと、その夜は安心して眠った。ところが翌朝目が覚めると遥か彼方に島が見える。おかしいと思い調べるとバターン半島である。バターン半島の山々なのである。一晩走ったのにガッカリする。これは陸軍船が機関故障でせいぜい4~5節ぐらいしか出ていなかった。10時間走っても40マイル。これではまだバターン半島が見える筈。有難いことに、陸軍部隊が沢山乗っていたので陸軍機が仏印から護衛についてくれる。日中はヤレヤレである。ところがマニラ仏印の中間地点で一緒に護衛していた駆潜艇より信号あり、波浪きびしく戦闘航海に堪えずカムラン湾に退避する、という。南シナ海の三角波にあおられて駆潜艇の航行は実際無理とみられた。かくて以後単艦護衛となる。
更に悪いことにあと2日で仏印という処で輸送船の汽潅室に浸水し排水が出来なくなった。ポンプにガラが詰まったらしい。ついに完全停止。波のまにまに流される。潜水艦にとってはまことに願ってもない好餌である。護衛はわが34号海防艦1隻のみ。いくら心配したとてどうにもならず援軍また来たらず。
流れる船のまわりをグルグルまわって見張るだけ。10日間流される。カムラン湾を過ぎサンジャック沖を過ぎてあと1週間も流されたらシンガポールという時海の色が茶色に変わった。海図でみると詳しい水深の記入はなく海底火山と書いてあるだけ。深度が急激に変わるようだ。これはまことに大きな幸運である。潜水艦は出ない。サイゴンはあまり遠くない。
それで曳航してサンジャックに向かうことに下。1万屯近い船を僅か800屯の艦が引っ張るのである。スピードは落ちる。潜水艦に狙われれば先ず本艦が攻撃を受け、ついでゆっくりと輸送船が料理されるだろう。大変難しいが曳航しなければならない。
もやい銃でホーサを渡し、引っ張ると切れてしまう。航海長の名案で輸送船の船首のアンカーにホーサを巻きつけアンカーを水面まで下させ曳航可能となる。本艦の方はワイヤーを艦中央にあるほうすい所にまわして、これに綱を繋ぐ。ワイヤーがほうすい所の角にあたるところは木材を当てる。しかしそれでもほうすい所の下に亀裂が出来るし、ワイヤーは切れるしで苦労した。潜水艦や雷跡を発見した時は直ちに曳航索を切断せねばならぬので斧を持った兵を船尾に配置した。 曳航をはじめてからずいぶん長い時間をかけたと思ったが2日間位で無事にサンジャックに入港し曳船に引継いだ。そしてサイゴンへ。サイゴンはきれいな町だった。総督府前の水交社宿舎があり、きれいに清掃されていた。ショロンの支那人町も見た。映画を見に行く。フランス語で字幕なし。チンプンカンプンで先任将校と2人でこんな筋だったかな、話合って帰った。猛烈な暑さと湿気で艦内で寝られぬ有様で閉口した。物資は豊富だったがビールは不味く馬の小便である。飲めたものではなかった。最近はベトナムのサイゴンと有名だが、二度と行く気はしない。
10 カムラン湾から門司へ
重油、ガソリン等を満載したタンカー5隻の船団、即ちスマトラからの「ミ14船団」の護衛を命ぜられカムラン湾で落合う。特設空母1隻、水雷艇、駆逐艦、そして海防艦2隻がついていた。護衛司令官はむつかしい人で、やかましいので有名な中佐で、会議には皆緊張してのぞんだものである。
カムラン湾出港は12月も終わりに近く、仏印沿岸をすぎ海南島にわたろうとしたとき、突如、水雷艇ひよどりが魚雷攻撃をうけた。私は非番で寝室にいたが飛び起きて艦橋へ。総員戦闘配置につけ。艦橋に上がって驚いた。真暗な中で当直から状況を聞くと、ひよどりは轟沈したらしい。それから5~6秒した時、海面一帯が一瞬きれいな稲光のようなうすみどり色に明るくなった。音は聞こえない。確かこれはひよどりの積んだ爆雷が誘爆したのではないかと思う。船団はトンキン湾方向へ避難、本艦には残って対潜掃蕩併せて乗組員救助の指令である。
一物も残らず油のみで木片もない。勿論人ひとり浮いてこなかった。諦めて船団を追う。大陸沿岸にくっついて水深の浅いところを航行する。海の色は珠江から流れる水で真黄色である。安心して行くと、船団の中央にいた3番船の機関室前あたりで水柱が立った。昼頃である。潜水艦と思ったがいる様子もない・やられた船も被害なし。音響機雷か磁気機雷だろうということであった。潜水艦の行けぬところは機雷を撒くという徹底した破壊戦を敵は試みていた。その機雷原を被害皆無で無事香港へ辿りついた。香港で2日休養、水交社はローソクであり全市停電していた。翌日は上陸しなかったが19才の水兵が盲腸炎らしいので内火艇で運び海軍病院に預け、急ぎ帰艦すると既に本艦はスローで走っている。ランチを横づけしこれもスローで走り乍ら吊上げて貰った。香港を発ち、至極平穏無事の航海をした。舟山列島に仮泊して正月の餅を戴いた。
途中燃料が切れたのでタンカーから重油を貰った。潮が早く難しく防舷材は直ぐペシャンコになる。15本位太い丸太を落としても船同士の舷に挟まれメリメリと割れてしまい苦労した。
舟山列島、青島と大廻りして行く。急に南から北へ行ったので寒くて、見張りは大変で毛布にくるまって当直した。どうやら無事に門司に到着した。昭和20年1月13日である。そしてこの航海が私の34号での最後の航海になった。
11 転勤命令、34号勤務の思い出
朝鮮海峡で転勤の支持をうけた。航海長は折角慣れたのに、もう下りるのかという。自分としても、なじんだのにと思い乍ら、行き先判らぬままの退艦である。
4ヶ月足らずの勤務だったが非常に長く感じた。充実した印象がまた強烈であった、この短い期間に34号海防艦は感状を3回も貰った。即ち、敵潜を撃沈し捕虜を得たこと、機関故障の陸軍兵満載船をサイゴンまで届けたこと、当時重要なタンカー船団を1隻の事故もなく内地に送り届けたこと、に対してである。
幸運に恵まれた艦だったと思う。そして私自身もはじめての艦船勤務でいろいろな体験をした。
佐世保出港前夜11時頃から同僚と大酒を飲み翌日出港後も二日酔、船酔いに悩まされたりした。
当直中、立ったままで居眠りをした。徹夜に続く徹夜で心身共に疲れ切っていたのである。一度ははっと気がつくと羅針儀がくるくる廻っている。「面舵」の令を下したが「戻せ」以下は眠っていたのでそのままであった。或いは駆逐艦が目の前にあって衝突しそうになるまで眠ってしまったり、昼夜連続勤務で消耗していた。
天気図暗号書を鎮守府で貰うのを忘れ艦長に叱られたが、航海長が戦争中は命令で天候に関係なくどこへでも行かねばならぬし、船団と行動を共にして行くから無くても良いと、助け舟を出してくれた。おかげで天気図は書いたことがなく、またその必要もなかった。手間が省けて良かった。
楽しかったのはサイゴンでバナナを鱈腹食べたこと。短くて太くモンキーバナナといい台湾のより旨かった。士官室に綱をわたしぶらさげて持って帰ろうとしたが舟山列島に真黒になって仕舞い失敗した。また勇山丸を護衛して仏印のキャノン岬に着いたが、紺碧の海に真白な三角帆を揚げた小舟と緑の林の中に点在する、赤や青の民家の平和な姿は今でも時々思い出す。
12 教官、そして伏竜特攻隊へ
門司で4期が搭乗してきた。後任である。引継ぎして退艦。呉から横須賀鎮守府に行くと「永らく御苦労でした。次の発令まで暫く、国に帰って待機されたい。配置が決まれば連絡する」という。2週間位家にいてから対潜学校に配属となる。20年2月から6月迄である。
門司で同期の友人から魚雷艇行きではないかと言われ自分もそのつもりだった。ところが対潜学校に出頭して5期予備学生の教官を命ぜられる。教官なんて自分の柄でもないと思ったが、同期の者も帰ってくるし、次第に心強くなり彼等と一緒なら何とかやれるのではないかと思った。教科は、天文航法を受持った。5期の教育も終わり学生隊長隈部伝大佐が元山警備府に行くので一緒に行かぬかと言われたが性に合わずと断った。川棚の魚雷艇にまわしてくれ志願したが、川棚突撃隊は水雷学校出が予定されていると言う。特攻希望なら、対潜学校が伏竜というのを開発している。伏竜特攻隊で、局地防御に使われるから是非これをやれと、島田少佐に説得され71突撃隊に行った。潜水服を着て潜り艦船に対し機雷攻撃を加えるという方法である。久里浜のペルリ来航記念碑の前や、野比で潜水訓練、攻撃訓練をした。実戦には使用されなかったが故障が多く殉職者が沢山出た。訓練もきつくて苦しいが、お通夜の空しさ情けなさは参った。
海底を潜り苛性ソーダ管を背中に、酸素ボンベと共に負い、吐いた空気が苛性ソーダ管を通って浄化され頭の上に出るのだが、このソーダ管に欠陥があって水際で、2~3回、転ぶとひびが入り海水が浸入し酸欠や苛性ソーダを肺にすって肺炎にかかったりして兵が死んだ。呉の予科錬から来た少年兵が主だった。
8月15日この訓練も終わった。
あとがき
日にちを追い乍ら歩いて来た道をしるしてきたが、振返ってみて楽しく充実した毎日がほとんど昨日のように思い出される。戦闘の一場面、一場面が鮮明に脳裡に記憶されていて我乍ら感心している。
潜水艦を沈め捕虜を得たことがあった等々を友人の依頼に応えて筆を執った次第であった。
昭和50年10月 記 終
尚、此の戦記は私が病弱のため、記憶を口述し、詳細資料の調査は全部友人各位にお願いした。皆様に衷心より感謝の意を表する次第である。